「やれ」と言われない世界で、どうやって走るか?
- hayabusaracing2025
- 7月31日
- 読了時間: 4分

先生か親か上司に怒られる:この恐怖は生きていてどこにでもついてきます。が、「怒られなかっただろうなるのだろう?」そう考えたことのある人もいると思います。実際に高校生で「誰にも怒られない怖さ」を経験した学生団体 CHANGE HOLDINGS Hayabsua Racing プロジェクトマネージャーの山藤です。「誰にも怒られない」は、何よりも怖いです。
自己紹介
2024年1月に F1 in Schools (現 STEM Racing)という学生がミニチュアF1カーを走らせて速さを競う大会で世界一を目指す Hayabsua Racing を創設し、2025年9月の世界大会に向けて車体制作、資金集め、広報活動を行っています。
僕自身は以前世界大会に別のチームでエンジニアとして出場したものの、海外チームの行っている資金集めやマーケティングを日本にも持ち込みたいという思いで世界一を目指すと同時にこの大会の日本での普及を目指しています。
誰にも怒られない、とはどういうことか?
「誰かに怒られる」ということはつまり、「その人にやれと言われている」または「やらかしたらその人に迷惑がかかる」ということである。ということは、学生が勝手に始めた学生団体なんで、そこで振ったタスクをやろうとやらないと、ちょっと他の学生に嫌な顔をされるくらいで別に怒られはしません。
というか、別に今ここで僕が全てやることを放棄しても、スポンサーさんとの契約条項に書いてある「世界大会に出場してユニフォームを着る」を実現さえできれば別に誰にも怒られない。逆にそんな中、モチベーションややる気を自分だけでなく、チームメンバーの中でも保ち続けるのは何よりも難しい。
また、「何か大きいことを成し遂げる」という中に楽しさは間違えなくあるが、それと同時に相当な辛さと苦しみがある。これはどんなことにおいても当てはまると思う。この「苦しみ」を越えるためにあるのが、他の人の怒りなのか、あるいは自分なのか、と考えると、誰かに言われてやる方が圧倒的に楽である。なぜなら、サボったらすぐ怒られるという目前の苦しみがあるからである。
何もしなくても誰にもなんも言われない、特に学生の場合は成績さえ良ければなんでもいいという考えがある中で、成績を取った上で何もしない学生が陥るのはこの「誰にも怒られない」という罠だ。
なぜそれが怖いのか?
じゃあそんな「誰にも怒られない」状況はなぜ怖いのか?
実際に立ち入ってみるとよくわかることだが、人は背水の陣となると頑張れるのは誰でもそうだ。しかし、そうでない状況で頭では頑張らなくてはいけないと思うが、心のどこかでサボりたいという気持ちがある以上難しい葛藤が続く。そしてある日その葛藤は「自分が本来できることをやりきれていないのでは」という恐怖に変わる。
これが、「誰にも怒られない怖さ」である。
誰かに何かをやれと言われることは、逆にいえばそれさえやれば自分の中で「やらなくちゃいけないこと」はクリアされる。この葛藤は誰かに怒られそうになる「背水の陣」を人工的に作り出しているのだから、この罠に陥ることはない。
なぜ大事なのか?
ただ、この「恐怖の領域」に立ち入らないと、起業や新しいことは一切できない。
周りと同じように上司に怒られるの、誰かに怒られるのを怖がりながら生きていけば、平凡でまぁまぁな人生は生きれるだろう。しかし同時に、「自分の実現したい未来」も実現しにくくなる。「誰かに怒られる」ということはつまり自分の中にある「頑張る」という気持ちを一回放棄して他の人の「やりなさい」に置き換えている:そんな人生は楽しいのだろうか、と17歳ながら思う。
もちろん会社員になるのが悪いことではない、自らモチベーションを持って自分の「やりたい」という気持ちで頑張り、自分の行きたい未来に行ければ素晴らしいと思う。が、日本はこれが非常に薄いと感じる。
日本の問題点
日本の教育はみなさんご存知の通り、「誰かに怒られながらやる」教育である。先生や塾の先生や親や友達に馬鹿にされて、怒られながら前に進んでいく。部活だって実はそうである。「自分のやりたいこと」を勝手にやり始めて勝手に目標を達成する喜びを知っている人は本当にごく一部だと思う。
だから、最近はともかく、起業をする人は少ないのだと思う。自分の思い描く未来に向かって自らの目標を立てて進んでいく喜びよりもこの「誰にも怒られない恐怖」がまさってしまうのだ。
だからこそ、我々は中高生がより自由に広報活動、資金集め、企業とのコラボレーションを行えるように我々の出場する大会を日本で広めていく。目標と自由を与えることで、我々学生の本気が発揮されるのだろう。
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